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Conversations for a Global Child Cover English 4 April 2020.jpg

Sample Chapters

グローバル・チャイルド

グローバルな子供を育てるには

by

Damian Rentoule

ダミアン・レンチュール

日本で育つ子供、その他の国で育つ子供。環境は色々だけれど、まずは子供たちが、自分自身が何者かを知り、そこから世界に目を向けていく。それがスタートです。

 

はじめに

「グローバルな世界で活躍できる子供を育てるには?」「何から始めたらいいの?」


子育てというのは、日本だろうと、どこの国であろうと、なかなか難しいものです。昔の子育てが大変だったか楽だったかなんて、誰にも分らない事。私たちの「記憶」は実は曖昧で、以前の考え方に頼る事はできません。しかし、確かな事は、今の子育ては、昔の世代の子育てとは、まったく異なります。それでも、私たちの子育ての知識と、新しいアイデアを、実験的に組み合わせつつ、ああでもない、こうでもないと子育てしていけば、子供たちを上手に育て、前進していけるのです。子育てとは、誰の真似もできない実験みたいなものです。予想もつかない未来に対応できるよう、子供たちの準備を手伝ってあげましょう。

残念ながら、取扱説明書付きで生まれてくる赤ちゃんはいません。しかし、実際のところ、説明書付きでなくて良かったのかもしれません。子育てとは、それぞれが全く違う、奥深い任務です。「子育ての権威」という、どこのどいつか分からない人が書いた子育て説明書があるとしても、信頼できるでしょうか。たとえ、子育てに関して、指示出しをしてくれる人を見つけられたとしても、子供は産声を上げた瞬間から家を出ていくまでの間、多くの事が、その世界とともに変化していきます。そして、変化していくにつれ、子供の操縦マニュアルは、時代遅れになっていきます。それでは、私たちは自分の人生経験から得た知識で、どう変化するか分からない未来に対応できるよう、子供たちの支度をしてあげられるのでしょうか?

子育てをする時、私たちは自分の心を信頼し、アドバイスはしっかり受け止め、課題には最善を尽くして立ち向かいます。さらに問題は複雑になってしまいますが、私たちが赤ちゃんを育てる事に慣れてきたかと思いきや、次は幼児を育てる事に順応し、その後、幼稚園児、小学生を育てる事に慣れなければいけません。そして、子供たちが「自分たちは大人になった」と考え、自分の人生を歩むため外の世界へと巣立っていくまで、この流れは続いてきます。子供たちが巣立った後は、私たち親が、子供のいない生活に順応していかなければなりません。常に、このような変化は起こります。そして、それが、子育ての核心となる課題です。子育ての旅を続けていく中で、私たちは以下に示す3つの変化に直面する事になります。

子供たちは常に変化しています。

子育て中に直面する最初の問題は、子供が育つにつれて、子供のニーズが際限なく変わるという事です。成長せずに、ずっとそのままでいてくれたら、どんなに楽でしょう。成長や発達の段階ごとに、育てる側は慣れていくけれど、気が付けば、子供たちは次の段階へと勝手に進んでいるのです。登校初日、子供を送り出した人に聞いてみてください。「もう学校に行くようになったなんて、信じられない。あっという間だね。」となどと親御さんが言っておられるのを、私は何度聞いたか分かりません。幼稚園、小学校、中学校、高校や大学、どれであろうと、新しいステップを踏むときは、いつも同じ気持ちになります。ステップを踏むごとに、私たち自身は老いていく気持ちになります。時間は私たちには優しくありません。しかし、それを否定する事はありません。変化は速く、容赦のないもの。そして、この子育ての旅で私たちは子供を理解しつづけるよう努力しなければならないのです。

私たち親の世界は、子供の世界と違います。

これが、子育て中に直面する2つ目の問題です。私たちが住んでいる世界は、子供の世界とは違います。これは、よく言われている事ですが、実際はもっと複雑です。ジェネレーション・ギャップの事だと誤解される事もありますが、ジェネレーション・ギャップとは、生年月日で分けられたグループが、何らかの形で同じように世界を見ているという事です。ジェネレーション・ギャップという言葉で片づけてしまえば、私たちの世界は、かつてないほどシンプルに見えます。しかし、私たちが見ている今日の世界を理解するのはかなり頑張らなければならないほど難しい事です。言うまでもなく、子供が見ている今日の世界を理解するのも難しいに違いありません。子供の世界は、明らかに大人の世界とは異なるのです。「今日」という日がどんなものかさえ分からないのですから、子供の世界が、明日、来年、そして20年後はどうなっているか分かる筈も無く、更に複雑になっていきます。

私たちの世界は変化し続けています。

これが、子育ての3つ目の問題です。子供たちは、今年と去年では違っています。その上、今日の世界は、去年、おととしから変化しています。この世界で、私たちは子供たちを安心できるよう、幸せになるように育てていますが、私たちは皆、その世界がどうなっていくかは、まったく予測できません。

親として、私たちは、そのような変化を止める事はできません。それが人生の現実なのです。しかし、子供たちが自分自身と自分の世界を理解し、自分自身でスキルを身につけ、マインドセットを探求していけるようサポートする事はできます。そうする事で、子供たちは、自分自身で理解する事ができるにようになります。私たちは、子供たちが学ぶべき事すべては教えられませんが、「考え方」を学ぶ手助けはできます。

上記の3つの問題はすべて、世界中の親が、文化の違いに関わらず経験している事です。ただし、それぞれの親がこれらの問題にそれぞれの形で直面しています。それは日本でも同じです。これら3つの問題は、解決すべき問題ではありません。それが、私たちの現実なのです。そうやって、私たちは世界を経験しているのです。子供たちをどう育てるか決める時に役立つ、世界の捉え方でしかありません。

この本で紹介するアイデアは、日本での子育てに関するものです。しかし、どんなアイデアでも、そうであるように、ちょっぴりの想像力と、ひとつまみのクリティカルな視点さえあれば、文化の違いを超えて応用可能です。私たちが学校で学んだ教訓が家庭で役立ったり、その逆で家庭での教訓が学校で役立つ事もあるので、今からお話しする内容は、学校と家庭での話を行ったり来たりします。まずは、私自身の事からお話ししましょう。奇妙なほどの変化があったにも関わらず、その変化に気づかない私の話です。

私が初めて日本に降り立ったのは1991年でした。ここ、日本での暮らしについて、ほんのわずかの知識しかなかったので、当時をどのように生き延びてきたのか、今では想像しがたいほどです。日本文化について、ほとんど知らなかっただけでなく、「文化とは何だ」という知識すらありませんでした。同様に、日本語もほぼ分からず、「言語の性質とは何だ」という事も、よく分かっていませんでした。私は大学を卒業したばかりの何も知らない21歳。その当時は、そんな事を学ぶ術すら知らなかったのです。知らない事を、どうやって知るというのでしょうか。日本にやってきた時の、そんな私の問題に加え、私は自分自身の事すら、あまり理解できていませんでした。それは、私を形成しているもの、「私は一体何者か」に気づかされるような経験もなかったからです。私は、世界の新しい見方を目の前に突き付けられました。そして自分自身とは何者かを考えなければならなくなるまで、アイデンティティの複雑さを考えた事はありませんでした。それは、私はそれまで、シャボン玉の中、つまり私と外の世界の間に張られた透明なバリアの内側にいるようでした。しかし、そのバリアは、どうにかすれば、破れてしまうようなものでした。それは、どちらかというと習慣的なバリアで、その意味では、私自身と私の日常的よって、作り上げられたものでした。来日して、私はこのバリアが急速に壊れていくのを感じました。

人々を隔てていたバリアの崩壊は、人々が益々、繋がっていくグローバルな世界の変化の本質なのです。グローバルなマインドネスとは、ある人と、私たち全員が属している多層コミュニティとの間の繋がりを深く認識する事だと私は考えています。そして、そのコミュニティで他者の利益のために行動する意欲もグローバルなマインドネスには含まれると私は思うのです。今後、相互に繋がりつつある世界に、子供たちが飛び込んでいった時、課題やチャンスに直面するはずです。それに備えるため、鍛えておかなければならないマインドセットだと私は信じています。

グローバルなマインドネスとは、人と、私たち全員が属している多層コミュニティとの間の繋がりを深く認識する事です

不確かな未来に備えた子育てについて模索する時、このグローバルなマインドセットの定義が役立ちます。この定義を使って、グローバルな世界に対応できる子育てを、のちほど提案していきます。この本で紹介したアイデアは、私自身が長年、日本や、その他の未知の土地で経験した事から自分自身を理解していく過程で得たものです。私の学校生活ついても触れていますが、それも皆さんのお役に立つ事を願っています。この本では、お子さんとの会話をどのように進めたらよいか提案しています。私の話が、お子さんがグローバルなマインドセットを身に付けるアプローチのお手本になると嬉しいです。皆さんは、常に子供たちの事を理解する必要がありますし、子供たちも、親御さんの事を理解し続ける必要があります。お子さんは、もうすぐ新しい複雑な世界を突き進んでいく事が必要になります。成功と幸福という捉えところの無い理想を探し求め、自分自身をもっと理解する事。これらは、これから進む道で1番重要なステップです。そして、親御さんたちも、お子さんの進む道を探すお手伝いをしてあげましょう。

この本で紹介させいただくアドバイスの多くは、パース、ブルネイ・ダルサラーム、東京、ハワイで20年以上、校長を務めてきた私の経験をベースにしています。校長として、子供たちやご家族と、将来の希望や願い、心配事、そして日々の苦労について、お話を沢山してきました。常に変化する世界での子育てについて親御さんとお話しする中で出てきた共通の問題についても触れています。皆さんのお役に立ちますように…。

私について少しお話しさせてください。それを理解していただければ、おそらく私の物の見方も分かっていただけるのではないかと思います。ある人の歴史とは、その人の考えと切り離す事はできません。1969年、私は、オーストラリアの内陸、キャンベラで生まれ、1960年代は、2か月しか経験できませんでした。興味深い60年代だったはずなのに、残念ながら、その頃の記憶はほぼありません。子供の頃というのは、自分の人生を自分でコントロールできないものです。私が5歳だった時、私の両親はオーストラリア北部に家族を連れて引っ越し、ゴールドコーストと呼ばれる都市の亜熱帯地域、クイーンズランド州で暮らし始めました。子供時代には、両親に面と向かって感謝するという事は、滅多にありません。しかし、海のそばの暖かい場所へ引っ越すのは、良いアイデアだと、子供ながらに、すぐに分かりました。そして、その時、既にキャンベラとゴールドコーストの人というのは、どこか違っていると気づきました。つまり、それは、私が初めて持った国民的アイデンティティに対する疑問だったのでしょう。とは言え、当時、アイデンティティについての疑問だとは、自分でも気づいていなかったのですが。

私は、15歳になるまで、1970年代と80年代をこの海岸沿いの街で過ごしました。通りを自由に闊歩し、ビーチに入り浸って、真っ黒に日焼けしていました。この日焼けしていた時期に、私はサーフィンと海に魅了されました。そして今でも、サーフィンと海への愛情は持ち続けています。ただし、今では、水に入る時も、水から出ている時も、帽子は被るようになりました。これが、人生で遅まきながら学んだ教訓の1つです。自己形成期、とくに小学生、中学生時代は、自分がどんな人間なのかを知る上で、非常に大きな影響力を持ちます。この本の大半では、小中学生時代に急速に形作られるお子さんのアイデンティティを模索する時に、あなたがお子さんと、どのような会話をすれば良いか説明しています。子供たちが自分自身をより理解できるようサポートする事で、子供たちは他者と、より有意義な繋がりを持てるようになります。

15歳の時、私はビーチの向こうに世界を見つけました。私の両親は、パプアニューギニアに移住しており、私は、高校最後の2年間と大学4年間、毎年2~3か月は、両親の元を訪れ、この素晴らしい国での生活を楽しむ事ができました。私がそれまで知っていたすべての事が、パプアニューギニアでは全く違っていました。その違いは、どこから説明したらいいか分からなくなるほどでした。私が旅した年月は、私が思うに、その後の放浪の触媒になりました。私の冒険は、インドネシアでサーフィンする事から始まりました。英語しか話せず、大学を卒業したばかりのほぼ無一文、無知な21歳だった私は、その後、日本にたどり着く事になります。そして日本の地に降り立った時はまだインドネシアで日焼けした肌を晒していました。

当時、私は日本には数か月だけ滞在する予定だったのですが、結局は18か月滞在する事になりました。その後、ゴールドコーストに戻ったのですが、日本での予想外の長期滞在は、愛知県在住のある人物、つまり、妻との出会いが大きく関係していました。長女はゴールドコーストで生まれ、次女は豊田市で生まれました。そこで、私は日本との交換教育プログラムで働く事になりました。これが私にとって、2回目の日本訪問となりましたが、これが最後の訪日にはなりませんでした。滞在中、私は素晴らしい時間を過ごす事ができました。私は日本の中学校が大好きでしたし、日本について、そして自分自身について沢山学ぶ事ができました。娘たちがこの世に生を受けてからは、私がいつ、どこにいたかは、娘たちの年齢に関連付けて覚えています。親の人生とは子供のストーリーなのです。

娘の1人はオーストラリアのパースで初めての学校生活をスタートさせました。もう1人の娘はブルネイ・ダルサラームでスタートさせました。そして、1人は東京で学校を卒業し、もう1人はハワイで卒業しました。現在、私と妻は広島で娘のいない生活を送っています。娘たちは自分の人生を歩んでいます。子育ての時代は、私の人生の中の20年で、一瞬のうちに過ぎ去っていきました。人生は、そんな風に過ぎていくのだと、私たちは皆、徐々に気づくのです。過去50年の人生を振り返ると、人生の最大の喜びは、今それぞれに成功と幸せを追い求めている2人の素晴らしい娘たちを育てられた事だと、明言できます。また、子育ては私の人生最大の挑戦でもありました。そして、最大の冒険でもありました。すべての親が分かっている事ですが、もうすぐ親になる人は「子育ては大変ではないかなぁ」と少し怖がるかもしれません。私の提案が、子育ての旅に役立つアイデアとなる事を願っています。自分に合わないと思う提案は無視してください。そして、取り入れられるものだけ実践してみてください。あなたが今まで考えた事がなかったようなアイデアの種が1つ、2つしかなくても役立つはずです。そのアイデアが、どこに繋がっていくかは分かりません。私は今でも1990年ごろに思いついた考えを覚えています。それは「ちょっと日本に行ってみようかな」という考えでした。この考えがすべてを変えたのです。

 

第1章: 他者という考え

日本に初めてやって来た時、私の新しい隣人と私の間には、明らかに文化的相違がありました。しかし、それにも関わらず、実は自分たちが気づかないところで、かなり類似している事に気づきました。その事を理解するのは大切な事でした。同時に、オーストラリアで気づいた事がありました。文化面で明らかに隣人と類似しているにも関わらず、実は分かっているよりも、はるかに異なっていると。それを理解する事も、更に大切な事でした。

私にとって完全にミステリアスな場所、日本に足を踏み入れましたが、日本の事を知らないだけでなく、自分自身の事もよく分かっていない事に気付き、ショックを受けました。自分のアイデンティティどころか、自分の文化もほとんど分かっていませんでした。自分が既にいる場所を内側から見るのは難しい事です。水中にいる魚をイメージしてみてください。魚にしてみれば、水の中にいる事、水にいる事の快適さを完全に意識していないかもしれません。水から出る事で初めて、すぐに水中という場所を意識する事でしょう。日本で、私は、まさに水から出た魚なのでした。

私自身の文化を、他人の目で見なければならなくなり、私はある事に疑いを持つようになりました。それは、私の文化と私のアイデンティティが異なるという事です。私はこの違いを考えた事は一度もありませんでしたし、当時は、その違いすら区別できていませんでした。しかし自分が属するグループのステレオタイプに直面した時、文化とアイデンティティの区別について疑問を抱かずには、いられなくなりました。私たちは人々を分類する事で、世界を理解するためのステレオタイプを作り上げます。しかし、あるステレオタイプの中に自分自身を見つけると、そのベールは取り去られます。なんだか、そのような考えはおかしいと思う人もいるかもしれませんし、イラつくと思う人もいるかもしれません。どちらも感じる人は沢山いるでしょう。ステレオタイプとは、他者を分類するときに使うもので、「他者」の意味を考える時に便利です。そして、この「他者という考え」が、私たち人間の対立の歴史を多く生み出してきました。

所属するグルーブのステレオタイプに直面した時、あなたは文化とアイデンティティの区別について疑問を抱かずには、いられなくなります。

他者という考えは、グローバルなマインドネスのために必要な核心部分です。私たちが、代名詞にとらわれる事で、区別する必要性を認識する事です。もし、あなたがあなたでなければ、私は私ではない。あなたたちが「彼ら」でなけば、私たちが「私たち」ではありえません。

奇妙に感じるかもしれませんが、区別する事で、私たちは繋がりを持っています。自分の家族を囲うように線引きをするので、私たちは家族の一員と認識されます。これが私たちのシャボン玉です。私たちは友人を囲うように線を引いて、仲間になれるようにします。私たちは、シャボン玉に友達を入れ、友達は私たちを自分たちのシャボン玉に入れるのです。私たちは、スポーツ・チームのファンの周りに線を引き、その仲間になる事もできます。それもシャボン玉です。ある時、人々は、ある土地の周りに線を引き、同じような理由で、それを国と呼びました。境界線の内側の人たちを同類として特定するため、他者と自分たちを区別するのです。そのシャボン玉が小さい事もあるし、大きい事だってある。でも、みんな同じ意味があって、私たちが属するものとして、それぞれ役立っているのです。私たちは、違う目的のために異なるシャボン玉を使う事もあります。グローバルという用語は、私たちが自分自身を囲い込んでいるシャボン玉と、そのシャボン玉の内側と外側を隔てている境界線は必要/便利なものだけれど、所詮は人工的なものであると認識しようとする事です。

国籍を例に取ってみましょう。私はオーストラリア人ですが、東部、沿岸地域の都市の出身で、北西部の砂漠地帯にある鉱山の街で育った人とは、かなり違う経験をしています。この国籍の境界は、オーストラリア人以外と私たちを分離する事で、その内側にいる私たちオーストラリア人を相互につなぐものです。しかし、国には、さらに地域や、地区といったものがあります。その地域には、更に区分できる社会階級や言語グループ、歴史といったものがあります。その区分は非常に複雑で、終わりが無いように見えます。しかし、国籍で見ていくと、そのような細かい区分けは背景に消えていきます。外国にいると、その人工的な区分けが、より明確に見えてくるのです。

この事に気付いたのは、ハワイに引っ越してきた時です。私は主に米国の教師と仕事をしていました。米国の教師たちは、国籍でまとまってはいましたが、実は信じられないほど多くの区分けがありました。ハワイの住民は、米国の他の州を「本土」と呼んでいるのを聞いて、西部オーストラリア人が、他の地域を「東部州」と呼んでいた事を思い出しました。シドニーとメルボルンが歴史的にライバル関係にある事など、これらの地区が失った個々のアイデンティティは、今や西部オーストラリア人の目線からすれば、他者として認識されるだけで、重要ではないのです。

ハワイでは、米国本土(Mainland)から引っ越してきた人は、しばしば「本土人(Mainlander)」と呼ばれていました。自分のニッチを作れるくらい沢山お金を持っている本土人もいて、自分たちが設定したテリトリー内で上手に適応していました。ラニカイとカイルアは独特の個性がありました。とてもハワイ風なのですが、独特なのです。不動産の値段が法外なので、経済的な区分け線を引く事ができたのですが、このようなグループを区分していたのは家の値段だけではありませんでした。

自分たちの環境に完璧に適応している別のグループもありました。ワイキキで素敵なニッチを作った日本人観光客です。私はオアフ島のホノルルと反対側のカネオヘに住んでいて、家族で、よくパリハイウェイを運転して、ワイキキまで行き、夕食をとったり、アラモアナで買い物をしたりしていました。いつも、観光客になったような気がしていました。たくさんやってくる観光客が好きでしたし、実際、私たちも間違いなく観光客の一員でしたが、ぴったりとその場所にはまっていました。東京の街角で聞こえてくるくらい多くの日本語が、ワイキキの街角でも聞けるのが大好きでした。ハワイである事は間違い無いのですが、ちょっと違うスタイルのハワイなのです。そこでは、他者のほうが目立っており、ハワイ特有の重要な現代文化の一面でもあるのです。そして、その事が、周辺の海のアイデンティティにも影響を与えていました。

サーフィン文化には地元主義が存在します。あるサーフィン・スポットの近くに住んでいるサーファーは、よそ者がそこでサーフィンする事を良く思っていません。その場所が込み合うようになり、良い波の奪い合いがある時は、特によくある話です。ゴールドコーストの子供時代に見ていたサーフィン雑誌や映画を通して、ハワイの地元主義について聞いた事はありましたが、実際、遭遇する事になりました。オアフのノースショアは、私たちにとって、訪れる事を夢見る魅惑的なビーチでした。しかし、一方で、70年代に「ブラック・ショーツ」として知られる地元サーファーによって保護されていました。ブラック・ショーツという名前は、彼らが着ていたサーフィン用のショートパンツの色からきています。子供の頃、彼らが駐車場で暴行したり、水中で攻撃したりするなど、少しおおげさな話も聞きました。彼らは、よそ者がノースショアを侵略する事に対し攻撃的で、明らかに抵抗していました。2011年に、私がハワイにやって来た頃には、既にそのような話は昔話となっていましたが、それでも、そのような印象は残っていました。地元主義は、世界各地で一般的でした。日本の礼儀正しいサーフィン文化を8年経験した後、ハワイに移り住んだ私は、「世界でも有名なノースショアでの地元主義はどうなっているのかなぁ」と思っていました。そして、「どうやったら、そこに馴染めるのかなぁ」と考えていました。

初めてノースショアを訪れた時、ノースショアについては、そのような話以外は何も知りませんでした。島のウィンドワード側から運転していくと、30kmにわたる見事なサーフィン・ブレイク(サーフィンの波が崩れる場所)が見えてきます。ここには、ベルジーランドと呼ばれるノースショアで屈指の地元率の高いブレイクがあります。その時は、このブレイクについては何も知らなかったのですが、今までに見た事もないような美しい海岸線を1時間車で走った場所にあり、サーフボードを抱えた人たちが、茂みの中を通ってビーチに向かっていました。ビーチの名前は知らないけれど、私はサーファーがいる事が分かれば充分だと思いました。

私は水辺まで歩いて行き、サーファーが次の波が来るのを座って待つ場所「ラインナップ」に向かって、パドリングし始めました。よそ者感、満載です。もちろん、私はよそ者でしたが、さほど、よそ者意識はありませんでした。ノースショアの波のほぼすべてがそうであるように、波がリーフにぶつかります。サーファーのグループがボードの上に座っています。そして、リーフはその数メートル下にあるのです。彼らの近くまでパドリングしたとき、2つの事を感じ取りました。1つ目は彼らがお互いに目配せをして、私が彼らの地元に来た事が明らかに不快なようでした。2つ目は、よそ者と、この場所の波をシェアするのは、あまり喜ばしくないという事でした。私が近づくと、彼らは話すのをやめ、いろんな表情で私を見ました。歓迎している様子は全く見られませんでした。彼らは、みんなショートボードに乗り、私はロングボードに乗っていたというのも、拍車をかけて状況を悪くしました。私と地元民のグループとの間に、もう1つ別の境界線ができてしまったのです。

自己防衛本能が働き、私は、このグルーブを避けるように大きく方向を変え、別の場所へと向かいました。この動きが、雰囲気を一変させました。私が向かう場所を確認すると、私が彼らの縄張りのブレイクを尊重したとシンプルに受け取ったようで、「よしよし」と言わんばかりの頷きが見られました。私が別のブレイクに向かってパドリングしながら彼らの横を通り過ぎた時は、「調子はどうだい?」なんて声をかけてもらえる始末でした。彼らは、私がどこに行こうが興味がありませんでした。その場所でサーフィンするよそ者はほとんどいなかったのです。私は、そのブレイクについては知りませんでしたが、サーフィンしにくい場所だと思いました。

その後、浅すぎる場所ではサンゴ礁に波が当たっている事が判明しました。もう1つ、その時に私が知らなかった事がありますので、追記しておきます。ベルジーランドの波は、サンゴ礁の右にブレイクします。私がパドリングして向かったリーフは、リーフの浅めの場所越しに左にブレイクしていたのです。そこの波に乗る事はできたのですが、良いスポットとは言えませんでした。しかし、よそ者にとっては充分です。ノースショアの波は、私が日本でサーフィンしてきた波よりも、もっとパワフルです。速くて浅い波でした。出かける前にその場所について予習すべきでしたが、奇跡が起きました。ノースショアで初めて2つの波を体験しましたが、サンゴ礁で体をすりむく事もなく、地元のサーファーたちにボコボコにされる事もなく生き延びる事ができました。重傷を負う前に引き揚げ、その後ベルジーランドでサーフィンする事は二度とありませんでした。

その日の事について、はっきりと覚えているのは、私がその場所に着くまで、その有名なブレイクの名前を知らなかったという事です。ボードを脇に抱え、ビーチに歩いて戻った時、私は、子供たちを連れて砂浜に座っている女性に、その場所の名前を聞きました。彼女は「変な奴」という目で私をじろりと見たのです。「よそ者」がどうやら間違いを犯したようでした。彼女は「ベルジーランドよ!なんで知らないの?」と答えました。私は、とっさに考えを巡らしながら、結局、単純明快に「初めて来たんです…」と言うしかなく、申し訳ない気持ちで、その場を離れました。今思えば、彼女の態度は少しひどすぎたと思うのです。彼女だって、人生のある時点までは、伝説のベルジーランドを知らなかったはず。私たちが知っている事すべては、ある時点で初めて学んだ事です。でも、この事を忘れがちです。

幸いな事に、その後5年間で、私はサーフィンのブレイクについて多くの事を学びました。概して、ベルジーランドの皆さんが、地元の美しい波を、よそ者とシェアしたがらないとしても、ゴールドコーストの海で感情的になっている人たちよりは、ハワイのサーファーは、もっと私たちを歓迎してくれました。ノースショアでは、みんな、ベルジーランドはよそ者が行く場所ではないと知っていました。この美しい波にあふれたビーチ一帯が、よそ者によってどれほど激しく、元の状態に戻せないほど荒らされ、家賃や土地の値段も高騰し、かつての穴場のブレイクを混雑させているか考えると納得できました。ベルジーランドには近づかないという私の選択は、小さな譲歩でした。

その後5年間、地元民たちが貴重な波を侵入者から守っている美しいビーチにつながる小道を車で通りすぎる度、ベルジーランドでのあの日の午後を思い出しました。ハワイに来たばかりの頃、再び私にアイデンティティの複雑さ、私たちが区分けをする目的(一見するとランダムな目的に見えますが)を教えてくれました。よそ者である事ず少し恥ずかしくもありました。そのような気持ちは、私たちが新しい事に挑戦するときに、私たちの周りにつきまといます。ハワイに住み続ける事もできるとは分かっていましたが、それでも私はよそ者でした。自分が何者かははっきりとしていました。私のアイデンティティは少なくとも、部分的には、「私ではなかった人、私にはならない人」で定義されていました。

ハワイでは、「他者」を感じる事が多くありました。私が気づいたように、島に住む事は簡単な事ではありませんでした。そこにある「他者」の度合いは、「よそ者」として理解するのは困難でした。私は就労ビザを持つオーストラリア人の短期居留者&侵入者でした。私は、その立場がふさわしいものと分かっていたので、生活するのは、さほど複雑ではありませんでした。ハワイに何世代も住んでいる本土人(mainlander: アメリカのハワイ州以外の49の州にルーツを持つ)家族に会いましたが、彼らはハワイ人と見なされていないのです。それは、ハワイ人という言葉は、生粋のハワイ人という意味で使われる事が一般的で、長期にわたってハワイに住んでいても、ハワイにルーツを持っていない住民は、ハワイ人ではないのです。この点は、アメリカの他州とは異なっています。カリフォルニア人もしくはネブラスカ人になるには、単純にカリフォルニアやネブラスカに住めばよいのですから。でも、ハワイでは、そうはいきません。

ハワイの中学校の校長にならないかと言われた時、後で考えると恥ずかしい事ではありますが、ハワイの事はあまり知りませんでした。実際、学校はオアフという島にあるという事は分かっていましたが、子供の頃に見たサーフィンの映画の中で、聞いた事がある名前だなと、ぼんやりと思い出すくらいでした。名高いサーフィンのスポット、ノースショアは知っていましたが、それだけでした。少なくとも、ハワイに行くずっと前に日本に初めて行った時も何も知りませんでしたが、それに比べれば、少なくとも、少しはハワイの事を知っていました。

私が旅する中で気づき、ハワイで更に確信するようになった事があります。それは、私たちが驚くほど複雑な度合いで、お互いを分類する傾向があるという事です。大人も容易には理解できませんが、境界線の内側に更に境界線の迷路があり、その中で、馴染もうとしている子供たちには、尚更、理解が困難です。境界線の1つ1つが、別の境界線と交差すると、断片を形成します。同様に、紙面上に何本か線を引くと、線と線の間にスペースができます。その分断されたスペースは、別の線でひかれた境界線で定義されています。子供たちにとって、自分たちのアイデンティティを非常に沢山の断片でつなぎ合わせるのは困難です。特に、私たちのアイデンティティは他者との関係の上で定義されている事が多いからです。「あなたがあなただから、私は私。」というように。

広島で、日本人と広島に住む外国人が関係を構築するイベントがあり、その企画に携わる男性と最近、話をする事がありました。彼は、私に、「外国人として日本に住む経験」についていろいろ質問しました。彼が考える「外国人として日本に住む経験」と、私の実際の経験には差があるように感じました。話が進むにつれ、その差はどんどん開いていきました。そしてついに、彼は「日本人についてどう思うか」という質問をしてきました。これには本当に驚き、何と答えたら良いか、まったく分かりませんでした。日本に来てから、そのような質問には何百回と答えてきたので(ここ数年は、そのような質問はされていませんが)、どういう風に答えれば良いか分かっていたはずなのです。おそらく、その質問自体が、日本や他の場所でも同様に、同一感の核となっているのだと思います。その時、咄嗟に出た私の返事は、「どの日本人ですか?」でした。

もちろん、この私の反応は期待されていたものとは違います。実際、少し反社会的で、ある意味、会話を止めてしまいます。一般的に、人というのは、「他のグループが自分のグループをどう思うか」に興味があります。「他人」は「私たち」をどう思っているのかです。結局のところ、私たちは社会的動物なのです。他人が自分たちをどう見ているかで、それぞれが自分たちのイメージを作り上げているように、それぞれが「他」と認識するグループからのフィードバックを求めています。少なくとも、私の経験では、一般的に期待されている答えとは、一般的で比較的ポジティブなステレオタイプについて詳述する事です。これで会話はスムーズに進みます。適度に礼儀正しく、沈黙を破る事ができる方法です。

ステレオタイプとは、国籍などの任意的な性質ごとに人々を分類する幅広い形での普遍化です。それは、私たちの周りの世界を整理するときに役立ちますが、時に単純化しすぎる恐れもあります。この分類プロセスの目的は、世界とのやりとりを単純化する事なので、予想外の事ではありません。そうしないと、私たちの脳は膨大なインプットを処理しきれないのです。このように、ステレオタイプは、ある程度は必要です。しかし、世界観は狭く、限られたものになってしまいます。情報を処理する時には役立ちますが、私たちの視点を制限してしまうのです。ステレオタイプは、私たちが分類したグループに属する個人が驚くほど複雑である事を反映していません。私たちは、過去のステレオタイプをきちんと見ていく必要があります。

ステレオタイプの潜在的マイナス効果としては、ステレオタイプの活用目的には合わないケースが多い事です。国籍ベースのステレオタイプが、会話の中で出てくる事が多いのは、人々が繋がりを作りたいという気持ちの表れです。別の場所から来た見知らぬ人に会った時、あなたが唯一持っている、その人とのコネクションというのは、真偽は疑わしいけれど、その人の出身地のステレオタイプです。少なくとも、それが出発点です。しかし、そこから前進していける事を願いましょう。

TED Talkというテレビ番組でChimamanda Ngozi Adichieが話した「The Story of a Sigle Story (シングル・ストーリーについての話)」のように、ステレオタイプには真実の要素が含まれていますが、複雑な全体像のほんの一部なので誤解を生みます。自分のアイデンティティを模索する時、私たちは、このような小さな断片にしがみつく事ができます。しかし、これには危険も伴います。「オーストラリア人は本当に良い人たちだ」と言われる事があります。これに対しては、なんと言ったらよいか困ります。とても良いオーストラリア人に会った事もありますし、正直なところ、怖い人もいます。このような意味で、オーストラリア人とは一般的に良い人かという質問に対しては、先程と同様に「どのオーストラリア人の事ですか?」「若いオーストラリア人?」「中年?」「老人?」「アウトローのバイカー?」「公務員?」「60,000年以上もそこに住んでいる先住民ですか?」「1788年から現在までの間のどこかでオーストラリアに引っ越してきた人ですか?」「どういうタイプの政治家を支持していますか?」「海外を旅した事があるオーストラリア人ですか?」「地元の海岸を離れた事がない人ですか?」「話す言語は1種類ですが?複数ですか?」「お酒は沢山飲んで、楽しむ人ですか?そうではない人ですか?」という質問に繋がります。どのような資質の組み合わせを持っている人を私は良い人だと評価するのでしょうか。

ステレオタイプには、真実の要素が含まれていますが、複雑な全体像のほんの一部なので誤解を生みます。

色々なタイプのオーストラリア人のグループの特徴をいくつか特定する質問を始めてしまうと、そのグループに、どんな人達だというラベルを付けるのは困難です。また、どんなステレオタイプも、あるグループには当てはまりますが、ひとつのグループだけで、それも限定的なものです。もう一度言いますが、話の一部として、あるグループに関しては真実かもしれませんが、全体としては誤解を生みだす事があります。ですから、「日本人をどう思いますか?」と質問されれば、どの日本人の事についてコメントすればよいかが難しいのです。

日本の生徒の例を挙げると、私は豊田市の中学校で日本交換教育プログラムで働いていた時、沢山の中学生に会いました。ほとんど全員が同じ制服を着ていました。男子は白いシャツの上にボタンがついた黒いジャケット、女子はブラウスとスカートで、すべて色と長さが同じで名札を付けていました。ほとんど全員同じ制服でしたが、違うタイプのグループもいました。彼らは、多くの学校にいるように、制服を色々アレンジしている事が簡単に見て取れました。ダボタボのズボンに肩幅を広くした制服、背中に龍の刺繍が入ったものや、明るい色の生地で作られている制服などを着ていました。その生徒たちは職員室のカウチに座わらされ、見るからに忍耐強い先生のカウンセリングを受けていました。このような生徒は、授業に出ずに学校を歩き回りました。卒業して間もない生徒が、時々、バイクに乗って学校にやって来て、グランドでバイクを空ぶかしし、昔教えてもらった先生が、自分たちを追い掛け回すのを見て笑ったりするのです。派手な行動で、カオスになるのは必至であり、私が最初にここに来た時は、何が何だか訳が分かりませんでした。生徒は、このように両極端な2つのグループに分かれていて、1つは大きいグループ、もう1つは小さいグループでした。同じ学校システムの中で同時に存在していましたが、ルールや求められるものがグループによって違っていました。日本人の学生は、どんな感じなのかと問われても、話が長くなるので、結局はステレオタイプの一部の真実について話をしてしまいがちなのです。

個々への影響を考慮せず、均一的なイメージを人工的に作ろうとするグループは危険性をはらんでいます。日本の中学校で働いていた時、このような力が人々を脇に追いやり、価値のない人間だと思わせたケースをいくつか見てきました。例えば、私が公立中学校に勤め始めた頃、ある生徒の英語のスピーチ・コンテストのサポートをした事がありました。その生徒のスピーチは、彼女の髪の問題に関するものでした。彼女の髪はくせ毛でした。その事で、彼女は必要のない悩みを抱えていたのです。彼女が言うには、小学校から中学まで、先生たちは皆、日本の女の子の髪はストレートであるべきという考えをなぜか持っていました。パーマは禁止されていたので、いつも彼女はウェービーヘアのせいで叱られていたそうです。この生徒も両親も、生まれつきのくせ毛だと学校側に説明してきましたが、必ず、また先生が髪の事を指摘していたようです。彼女のメッセージは、みんなに溶け込めず、どこにも属せなかったというものでした。この生徒は先生からの指示に従い、自分の髪について説明し続けました。しかし、彼女は、はみ出し者が集まる所へどんどん追いやられたのです。彼女はみんなと同じところに属したかったし、価値のある人間として扱われたかったのです。それは、私たち皆、同じです。

私が初めて彼女に会った時、彼女の髪はストレートでした。1年前、彼女がなりたかったストレート・ヘアの子、ウェービーヘアで叱られない子になるため、校則を破ってストレート・パーマをかけたようです。はみ出し者にならないため、そして、そのような生徒になる事が求められたので、彼女はその人になったのだと言いました。素晴らしいスピーチでした。切ないけれど、素晴らしかったです。

翌年、別の学校で、私は別のスピーチを読みました。私が彼女に会った時、その子の髪は黒色でした。しかし以前は違っていました。彼女の髪の色は生まれつき明るい色で、ほぼ茶色だったようです。しかし、先生たちは、彼女の茶色い髪が好ましいとは思わなかったのです。まさにデジャブーした。何度このようなピーチが書かれてきたのでしょうか。細かい内容は、前述の生徒とは違うとしても、ステレオタイプが引き起こした異端児、そして皆、同じであるという想像上の理想に合わせなければならない残酷なプレッシャーについての話でした。自分が属しているグループ内で、アイデンティティの一部を大切にする事が許されなかった子供。このストーリーは、細かい違いはあるとしても世界中の学校で繰り返されています。そして同じように心が傷つくのです。

身体的な外観と同様に、考え方も、このような主観的期待によって形作られます。成長してから、自分のグループを育てていく時、私たちが直面する問題の1つは、自分のアイデンティティと考え方をリンクさせるようになる事です。思考とアイデンティティは、どちらとも柔軟で独立したものですが、なぜか同じような考え方をする人が集まる傾向があります。これは、おそらく、そういう人たちと近い場所に住み、同じ言語を話し、同じ学校や職場に行っているからかもしれません。自分たちが作り上げてきた物とは違う、様々な考え方を考慮に入れるためには、他の考え方にもアクセスできるようにしなければなりません。考え方というものが、私たちのアイデンティティの重要な部分でも、私たちの考え方は、永続的なものではないと理解しなければなりません。私たちは成長し、世界の見方や考え方も変化しているのです。

他人の目を通して自分自身を見る事とは、立ち向かう事です。文化的に所属しているグループから1歩外に出た人は皆、この経験をする事になります。私たちの考え方を変えるポジティブな力にもなります。私の場合、いろんな国の文化が交差しました。私は日本に足を踏み入れたオーストラリア人でした。それは、社会経済学の文化かもしれません。つまり、仕事のない人間が、お金持ちの仕事場に足を踏み入れるという事です。宗教文化ならば、ヒンズー教の結婚式に足を踏み入れるカトリック教徒。性的思考の文化であれば、同性愛者である妹のパートナーに会う異性愛者の男性。年齢的な文化であれば、10代の孫娘の夢や希望を理解しようとする祖母。リストは続きます。様々な文化があるのです。私たちはその多くに属しています。潜在的に馴染みのない場所への閾値を形成し、同時に多くのグループやコミュニティに属しています。ですから、文化が1つしかないという事はありません。沢山の文化を抱えているのです。私たちは、文化の総合体なのです。

考え方が私たちのアイデンティティの重要な部分でも、私たちの考え方は、永続的なものではありません。

実際に私たちが文化の総合体であるならば、時に日本は同質的な社会と言われる事がありますが、それは奇妙な表現です。私が学校で教えていた時にも、この事を聞いた事を覚えていますが、その時は変だとは思いませんでした。グループを「同質的」だとするならば、そこに属する各人が1つの文化をもっているという意味になります。それは、人が1つの文化だという事です。さらに詳しく見ていくと、「同質的」とは、せいぜい蜃気楼であると分かります。近づけば近づくほど、イメージはぼやけてくる。それは、砂漠に消える水たまりのようです。日本に来る前、私は「同じである事」の蜃気楼を信じる事ができていたのかもしれません。しかし、知識を得ると、世界を単純化させているステレオタイプを邪魔するものになってきます。

それは、単に視点の高度の問題で、人々を見ていく時、そして人々の違いを見ていく時の私たちの視点を理解するのに役立つアナロジーになります。ある2人の上を低空飛行したとしましょう。彼らを近くで観察できます。私たちは彼らの話し方、服装、参加する祭り、信条や価値観など、明らかな違いを認識できます。1人は有名な東京大学の年配の大学教授で、もう1人は島根の田舎の学校を卒業したばかりで、建設現場で働く人だとしましょう。そのような簡単な説明だけで、私たちが実際に彼らに会った事、見た事、話した事がなくても、そして、彼らの家族の祝い事に同席していなくても、病気の時に彼らの病床を見舞わなくても、私たちの心は彼らの違いをイメージできたはずです。私たちが低い位置から、少しの間だったとしても、近づいて見る事ができれば。この2人の違いを沢山、特定できます。そして、彼らと話せたら、もっと多くの事を識別できるはずです。ステレオタイプとは、その人達に近づいて観察すると消えてなくなります。2人とも、唯一無二の個人である事がわかるのです。

私たちが彼らから遠ざかり、高度を高くして見ていきましょう。2人が遠くに見えます。そして、更に多くの人たちと集合した形で見えてきます。そして低空飛行で見ていた時には明らかだった個人差が、高度を上げるごとにぼやけてきます。見える人が多くなればなるほど、識別しにくくなってきます。ある一定の高度まで上げていくと、日本全体が見えてきて、この高度では、同質性または均一性の神話が生まれ、育まれます。残念ながら、この場所には見えない天井があるかのようで、これ以上は上昇しない場合が多いのです。私たちは、国を観察できるまで高度を維持していますが、それ以上は上昇していません。国境が見えるあたりで止まってしまう事が多いようです。これが、世界中に当てはまる真実であり、ある種の弱点なのです。

私たちが、もっと上昇すれば、私たちの視界は、世界全体、人類全体を見渡せるようになるでしょう。私たちの視野に、世界の人達全員を含められるようになるまで、もう少し上昇する能力を身に付ければ、もっと平和な世界にできるはずです。この事から、私が確信している事があります。それは、国境で区分されたバラバラの人間性の視点で見る高度まで来て、そこで止まってしまうのは、恣意的な選択のように思えます。

 

国境と国民のアイデンティティはもちろん便利です。しかし特定の性質を共有する事と、均一である事の違いを認識するためには、文化の違いをより詳しく調べる必要があります。具体的には、私たち個人は多くの目に見えないもので形作られているので、簡単には目には見えない共有部分を特に見ていく必要があります。しかし、この点については、もっと近づいて観察しなければ、見えてきません。

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